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ミネラル・ピープルと私たち

気付けばもう年末が近付いてきて、振り返ると手を動かし、本を読んだ一年でした。

自分の内側と向き合うような静かな時間が多かったように思います。

秋になってようやく美術館や郊外に再び出かけるようになり、美しいものに触れ、乾いたスポンジのように心が一気に水分を吸収していく感覚は、自分にとっての栄養が何なのか改めて気付くきっかけにもなりました。

周りには、これを機に東京から海の近くへ拠点を移すことを決めた友人もいます。

彼女が、風の抜ける部屋の窓辺で仕事をし、海辺の砂浜に裸足で立ってアーシングをする、それだけで私はきっと大丈夫な気がしたと話すのを聞いて、これからはきっとこういう風に、自分にとっての心地良さや豊かさを大切に暮らしていく人がどんどん増えていくのだろうと思いました。

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今、ネイティブアメリカンの末裔である、女性の植物学者が書いた本を読んでいますが、その中で今はほぼ話す人がいなくなった先住民族の言葉について触れている章があります。

彼らの言葉は、その言葉が指し示す対象に生命が宿っているかどうかで、動詞になったり名詞になったりする独特のルールを持つそうです。

そこには、現代の私たちは一見困惑するような動詞がたくさん出て来るそうで、それは例えば「土曜日る」や「入江る」、「丘る」など。

「そこには生命あるもののための文法がある」という文を読んで、流れる時間の粒子、水のしぶきや川のせせらぎ、木々がそよぐ姿が鮮やかに頭に浮かび、彼らにとってはその一瞬一瞬が、命あるものなのだと理解しました。

「ポタワトミ語基礎講座によれば、岩は生きている。山も、水も、炎も、さまざまな土地も。私たちの魂を、聖なる癒しの力を、歌を、ドラムの響きを、あるいは物語を吹き込まれたものはすべて、生きているのだ。生命がないもののほうが少なく、それは主に人間が作ったものであるように見える。たとえばテーブルのような、生命がないものについては『それは何ですか?』と訊き、『Dopwen yewe』と答える。それはテーブルです。でもリンゴのことは『それは誰ですか?』と尋ねなければならないし、『Mshimin yawe』と答える。その人はリンゴです。」

ロビン・ウォール・キマラー『植物と叡智の守り人』(築地書館)

言葉が動詞になった途端、生き生きといのちが感じられるものになり、不思議と自分との距離が近付くような印象を覚えます。

本の中でポタワトミ語を学んでいた彼女の教え子は、色んなものを物扱いしなかったら、世の中は今と違うのではないかと気付き、ハッとします。

また、先住民族の人々は自然の植物や動物たちを「スタンディング・ピープル」(木をそう呼ぶ)、「ビーバー・ピープル」、「ロック・ピープル」などと、尊敬の気持ちを込めて呼んでいたそうです。

私は宝石や金属を扱う仕事をしていますが、彼らの言葉と概念を借りて言えば、「クリスタル・ピープル」や「サファイア・ピープル」、「ゴールド・ピープル」など様々なピープルに力を貸してもらい制作をしており、こうした概念のもとにもの作りをしていくと、出来上がったものは自ずととても個性的でパワフルな物語を持つものになると思います。

去年から少しずつ、年に二回ほど出していた新作のペースを下げ、その代わりに一点物のアイテムを色々と作るようになりました。それぞれの宝石は大きさも異なれば、色合いや形も違います。

宝石の表情に沿って一点物に仕上げていく工程は、時間がかかり、代替が効かないため緊張するシーンも多いですが、じっくりと確かな技術と高品質な素材で作られたものは確かにそれだけの価値があるジュエリーになります。

ジュエリーが身に着ける人の小さな同志であれ、というコンセプトはスタートから変わらずmuskaの根幹ですが、特にここ数年、ものを作ることの意義、有限な自然素材を使っているということ、そして作ったものが次の世代に残っていくものであるか、また、その工程で関わる日本の職人の高齢化や技術継承のことなどをよく考えるようになり、より一点物の制作を増やしていく流れになりました。

世界中から採掘された宝石は、初めからキラキラとしている訳ではなく、また、リングは初めからその形ではありません。

自然の素材をリスペクトし、そしてそれを形にするために関わる人たちと、できる限り顔が見える環境で繋がっていくこと。出来上がるまでの背景が、そのジュエリーの物語になっていくことを意識すること。

こうしたことはそもそも、ネイティブアメリカンや世界各地の先住民族の人々が当たり前のようにしていたことですが、現代ではかなり意識して取り組まなければ、難しい時代になりました。

今の自分たちにできることを常に意識しながら、ものを作ること。

引き延ばされたような、しかし振り返れば一瞬にも思える奇妙な流れの中で、こうした根っこの部分を改めて見つめる1年でした。

外側に目を向けすぎると疲弊してしまうような情勢が続いていますが、潔く心の声に従い新しい暮らしを手に入れた友人のように、仕事と暮らし、物事の見方、全てが繋がっていくような生き方をし、出来るだけ顎の力を抜いて、笑顔でいたいものです。

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