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いつもと違う夏

間もなく9月。
本来であれば、香港に宝石の買い付けに行く時期でした。

仕事とはいえ、「そこに行けばいつも見る顔」を見られないというのは、なんだか少し寂しいものがあります。
9月でもまだまだ暑く、時折スコールにも襲われるこの時期の香港には、世界中から多種多様な宝石を携えた商人たちが集まります。

そうした機会に宝石の仕入れをしようと、これまた世界各国のジュエラーやジュエリーデザイナーが香港に集うのですが、大抵はめいめい好んで頻繁に使用する宝石があるため、自ずとよく仕入れる宝石商と顔馴染みになります。

海外の宝石商は家族経営のところも多く、彼らから物珍しいおやつを貰い、宝石の話にとどまらず、あーだこーだと家族の話やお互いの国の話などをしながら何時間も宝石の選別をしていると、お互い親近感が湧き、再会した時にはなんだか嬉しい気持ちになるものです。

最近、一点物の新作のデザインにとりかかっていますが、ストックしているルースを取り出しながら、それらを買い付けた宝石商たちの顔を懐かしく思い出します。

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香港出張の際には毎回必ず日程を組んで、一日二日、繁華街や郊外に出かけるようにしています。

山奥にある飲茶屋で朝の飲茶を楽しむためにローカルバスに揺られたり、家族で営む昔ながらの喫茶店で朝食をとり、本屋や雑貨屋を回ったり。

イルミネーションに照らされた夜の香港は人々のエネルギーがギュッと凝縮されギラギラとしているのに、早朝には空気が凛と澄み、老人たちが公園で太極拳やラジオ体操をしている。

そんな街の雰囲気、人々、全てが大好きで、不思議と何度通っても飽きない場所でした。

我が家でベッドカバーとして使っている、手縫いの大きなスワトウ刺繍のクロスがあります。
毎朝起きてベッドを整えクロスをかけると、ベッドだけでなく部屋全体がスッと整う気分で、私の朝の習慣になっています。
昨年、香港で買い、長くこの先使っていこうと、とても大切にしているものです。

このクロスを買ったお店は、香港のオフィス街にあるビルの一角にあり、そこには様々な大きさのスワトウ刺繍が所狭しと並んでいて、気の良い香港マダムが一人で切り盛りしていました。

スワトウ刺繍とは、中国は広東省汕頭で作られる刺繍製品です。西洋の宣教師が刺繍技術を伝えたところから始まったそうです。
どのようにして制作されるのかは、こちらの動画を見ていただけるとよく分かります。
生地を切り抜きながら縫われたその刺繍模様はとても繊細に見えて、実は丈夫に作られています。

香港マダムのお店にもたくさんの素晴らしい作品がありました。ただ、針仕事の定めか、長いこと刺繍をしていると視力も落ち、また、時代とともに手刺繍の縫い手になりたがる中国の若者も少なくなったため、今はほとんどが工業化してしまったこと、ご自身の年齢のこともあり私が訪れた時にはもうお店の閉店が決まっていること、そんなことをポツリポツリと話してくれました。

元々は手刺繍のブラウスでもないだろうかと探しに行ったのですが、お店の奥の方に大切そうにしまってあった包みが気になり、見せてもらったのがこの大きなスワトウのクロスでした。

「これは非売品で、もうこうした大きいものは二度と作れないから、大切に自分の母親の代から保管しておいたの」と広げてくれたクロスは、それがいかに丁寧に長い時間をかけて作られたのかがひと目でわかるような、大柄な草花の模様が大胆に組み合わさった、大変素晴らしいものでした。

生成りのリネンにベージュの糸で刺繍された模様の裏側を見ると、小さな玉結びがランダムに隠れており、ハンドステッチで職人が丹念にかがっていったことがうかがえます。

一度はお店を出たもののその美しさが忘れられず、引き返してきて布の前で立ち尽くしている私を見て、マダムも「ずっとしまっているよりも、日常で使ってもらったほうがクロスにとって幸せだろうから…。」と最後には根負けして譲ってくれました。

あの時、少し涙目になりながらも、大切そうにクロスを包んでくれたマダムは元気だろうかと最近よく思い出します。

前回香港を訪れた時、もう既に街はプロテストで以前とは様相が変わってきており、「次はしばらく来れないかもしれないけど…」と宝石商と話していたのが去年のこと。

当たり前にそこにあると思っていたものは当たり前でなく、いつでも会えると思っていた人たちに会えなくなることもある。

そんな事実に今さらながら気づき、日々の幸福とはなんだろうかと考える、今年の夏です。

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